ご機嫌いかがですか?
いま、そのときに思っていること、感じたことを、述べたらなと思う次第であります。

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今年初めてのたけのこ


春がそこまで来ているのでしょうか…

万願寺とうがらし

京都市丹後地方
西舞鶴市にあります
天台宗のお寺
満願寺。

このお寺がある地域で古くから
栽培されている大きな獅子唐がございます。

万願寺獅子唐

伏見で作られている獅子唐と
アメリカカリフォルニアで作られている獅子唐との掛け合わせにより出来た甘いとうがらしなんだそうです。
これをだしで薄く煮ますと、とても奥行きのあるお味になります。


宇宙いも

宇宙芋。
その奇妙な名前に惹かれて
思わず購入してみる。
taneimo.jpg
別名、エアポテト。
山芋のつる、いわゆるむかごの一種で
この芋の原産地は熱帯アジア・フィリッピンで、ヤマイモ科に属するようです。
写真 4
素揚げにすると美味しいとのことで、
油でそのまま揚げてみますと、長芋や大和イモを揚げた時に感じる
味わいに似ておりますね。

素朴なお味がなんとも秋を感じます。

草加の枝豆

埼玉県草加。
鎌倉時代の書物「吾妻鏡」に草加という名前が初めて文献に紹介されております。
草加の地名の由来としては、この場所が
綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、
砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説が一番有力な説だそうであります。

草加といえば草加煎餅が有名でございますが、なぜ草加煎餅が発達したのか
その歴史を調べてみますと、
草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、
農家の人たちは余った米を保存するために団子状にした米を乾かしたものを
保存食として作っていたそうです。

江戸時代になり、草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになったそうです。
このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。
当初は生地に塩を練りこんだものっだたそうですが、醤油が普及し始めた幕末から、
焼いたせんべいに醤油が塗られるようになたそうです。
大正時代以降、煎餅の認知度は高くなっていったそうです。
そのきっかけは当時川越で行われた特別大演習で、「煎餅」が埼玉の名産品
として天皇に献上されたことにあったそうです。
これが「天皇家が召し上がったおいしい草加の煎餅=草加せんべい」として
名称が広がっていき、その後草加市が煎餅づくりは地場産業として発達して
いったそうです。
写真
話は、枝豆ですが・・(苦笑).
枝豆の原料である大豆は、
中国北部を原産地とするマメ科の植物だそうで、朝鮮半島を通って
日本にやってきたと考えられておるそうです。
江戸時代には枝豆として庶民に定着した、歴史の古い作物なんだそうです。
大豆ならどれも枝豆として食べられるそうですが、
現在では枝豆専用として100種類以上の品種が開発されているそうです。

草加の枝豆は関東屈指の枝豆との評価が築地のやっちゃ場内の評価が
あるそうです。
草加の枝豆は昭和30年代から本格的に栽培され始めたそうで、
現在市内全域で盛んに生産されているそうです。
特長である「甘みのある味の良さ」は草加の土壌が枝豆栽培に適しているからなんだそうです。
葉・枝付きのまま束ねて販売するのも、草加の枝豆が新鮮だからこそできるワザなんだとか。
露地物が出回り始める7月上旬は一番人気があり、収穫は9月上旬まで美味しく食べられる
そうです。




喜界島の大名竹

孟宗筍の季節がひと段落した
今の時期になると出てきます鹿児島県喜界島の大名竹。
ことしもやってきました・・。
kikaijima_map1.jpg
喜界島の名前を聞きますと、学生時代の一人の友人のことを想い出します。
喜界島出身のI君とは、今でも数少ない学校を卒業してからも付き合っている
かけがえのない友人の一人でございます。
彼とは大学一年の頃にとあるスポーツのサークルで出会い、その後二年の終わりからの
ゼミでも偶然にも一緒になり、お互いにくされ縁を感じる良い友人でもあります。
彼は温厚な性格、顔立ちがハンサム、180近くの身長、ということのないほどのいい男。
当時から女性の方々には当然人気があり、そして同性の間でも、その小言に拘らない
懐の広い性格から男が思わず惚れてしまうほどのナイスガイでありました。

彼は学生時代、かなりギャンブルに嵌まり込んでしまい、パチンコ、競馬、麻雀等、いろいろな
ものに手を出して、家からの仕送り、バイト代は空欠になると、当時住んでいた世田谷のアパート
の家具が訪れるたびに無くなっていた・・ということが思い出されます。皆、質屋行き・・・・・(苦笑)。
でも、彼は金は天下のまわりもの・・というだけで、まったくあわてることもなく飄々と過ごしていた
その豪放磊落の度量に僕もすげえ男だなと、ある意味羨ましくも思っておりました。
写真
彼の小さいことに拘らないその伸びやかすぎる性格を育んだのがたぶん喜界島の地だった
のだろうと思います。
卒業してからしばらくののち、彼が大阪で結婚式をやるから来てくれないかと手紙が来て、
彼の結婚式に出た時に、初めて会った彼のご両親さん、ご親族の皆さんが皆、I君のような
のんびりとした伸びやかな度量の大きい言動、お人柄を見まして、喜界島の皆さんって
底知れぬすげえ人達ばっかりなんだなあと、改めて感じ入ったのを想い出します。

喜界島、いつの日か行ってみたいですね。←クリック