ご機嫌いかがですか?
いま、そのときに思っていること、感じたことを、述べたらなと思う次第であります。

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那須紀行 ラスト

那須への旅、残すところ那須最大の観光スポットの殺生石と鹿の湯温泉の訪問
を残すのみ。南ヶ丘牧場をあとにして、バスに乗ろうと思いましたら、すでに乗ろうとしていたバスは
行ってしまい、時刻表をみたら次のバスまで相当間が空いていたこともあり、天気もいいので
そこまで距離はかなりありましたが歩いていくことに・・・。まあぼちぼち行きますかと。
車で通った時は感じることはできなかった、木々からの匂い。息吹のようなもの。多くの名の知れぬ小さな草花が所々で咲いており、その様がダイレクトに伝わってきます。これぞ歩くことでしか感じることのできない醍醐味なのかなと。
ただ車道が全面の通りなので、歩道といわれるところは白い線の外のほんの僅かのスペース、なので
車がたまに横を通るときは、思わずひかれないよう注意しなければならないほど、結構歩き辛いものを感じます。


奥の細道の作者でもあります松尾芭蕉さんも、その道中でこちらの那須高原を訪れられておられます。
現代文版
「黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、
射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。
黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、
馬で送ってもらうこととなった。
すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。
馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

(広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、
馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか)

殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの
毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど
重なりあって死んでいた。(奥の細道朗読集HPより抜粋)


松尾芭蕉さんのプロフィールを参考までに
本名、松尾宗房(むねふさ)さん。伊賀国上野(三重県)出身の方。
松尾家は準武士待遇の農民。12歳の時に父が逝去。
18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠氏に料理人として仕える。
藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり
、芭蕉さんも良忠氏から俳諧の手ほどきを受けて詠み始めたそうであります。

28歳、初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満宮に奉納をし、
伊賀俳壇で若手の代表格として地位を築く。
その後仕官を退き江戸へ出て、さらに俳人として修業を積まれる。
31歳の時に号の桃青(とうせい)を名乗る。
33歳、俳諧師の免許皆伝となり、宗匠(そうしょう、師匠)となる。その後
江戸俳壇の中心地・日本橋に居を定める。
当時の俳壇では、滑稽の機知や華やかさを競う句ばかりが持てはやされていた。
しかし芭蕉さんが目指したのは、静寂の中の自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、
魂の救済などを詠み込んだ世界。“笑い”や“楽しさ”を求める俳句ではなく、
自然や人生の探究が刻み込まれた俳句。芭蕉さんは自身の手で、
俳諧を深化させ精神と向き合う文学に昇華していかれたそうであります。

36歳、江戸の俳壇には金や名声への欲望が満ちており、
宗匠たちは弟子の数を競い合うことに終始していた。
この状況に失望した芭蕉さんは、江戸の街中を去って、
隅田川東岸の深川に草庵を結び隠棲する。
宗匠間の価値観では、日本橋から去ることは「敗北」と見なされたが、
芭蕉さんの弟子達は深川への移転を大いに歓迎し、
彼らは一丸となって師の生活を支援した。
草庵の庭にバショウを一株植えたところ、見事な葉がつき評判になったので、
弟子達は「芭蕉庵」と呼び始め、彼自身も以降の号を“芭蕉(はせを)”としたそうであります

松尾芭蕉さんも通ったであろうこの那須の大地、当時とは時代の流れとともに
歩く道は変わりはしましたが、気持ちは通じる部分もいくばくかはあるのではないかと
思いました。殺生石で感じた硫黄の臭い、鹿の湯温泉で浴びた高熱の湯。
それぞれは今も変わらぬ不変の自然の力の営み。
荒涼たる自然の重みに身を委ねて、自らの進むべき道は何であるのか、
自問自答する機会を与えてくださったこの那須の地の訪問は、
今後の財産になるものだと心より有難く思いました。
このシリーズ終わります。