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初めての日光 パート3

以前から素朴な疑問として思っていました晩年
東照宮権現と言われた徳川家康氏が以前の松平元康という名前から徳川家康という名前に
変更した理由を調べてみますと、
家康氏の父である岡崎城主であった松平広忠氏は従属していた守護大名の今川義元公に誠意を
示すために、長男の竹千代を今川氏のいる駿府に人質として送られた経緯があるそうです。
父の広忠氏はその二年後に、残念なことに家臣の謀反に遇い、殺害されてしまったそうであります。
母はすでに父とは政略的な影響で離縁の身となったおり、竹千代氏は、まさに頼れる者もなく孤独の身に・・・
しかし、今川義元公はそんな不憫な竹千代を愛しんだそうです。
その後、竹千代は今川氏のもとで、元服して、名を義元公の一字を取って、松平元信という名に
変えたそうであります。それから今川義元公の姪っ子にあたる築山殿を正室にめとり
、名を祖父の松平清康氏の一字を取り、松平元康と再び改めたそうであります。

桶狭間の戦いの後、元康氏にとって養父ともいえる義元公がこの世を去ったとき、
自身も殉死しようと思ったそうで、自害すんでまでいかれたそうでありますが、
松平家の菩提寺の住職に、早まってはならぬと諭されたそうで、何とか思いとどまり、
自身の生まれ故郷の三河の国を支配する志を抱き、その後のご活躍に
繋がったそうでございます。
義元公が亡くなり、自身の名前も、崇拝していたと言われます平安時代後期の武将、
源頼朝、足利尊氏、それぞれの祖先でもあり武家の誉れとも言われた源義家公の
名前の一字を取り、松平家康と再び改名したそうでございます。

1566年に今川氏を退け、松平家康氏が実質的に三河の国を支配下に置いた流れの中で
朝廷から三河の領主として認めてもらうためには官位が必要であったそうであります。
家康の姓の松平という苗字は士豪を現し、官位は貴種(名門)しかもらうことが
できなかったために、当時の関白の近衛前久氏に駆け寄って、
松平家康の祖父の松平清康氏がかつて、鎌倉幕府滅亡に貢献した新田義貞公一族の
得川氏の末裔であるとの主張している故事を探し出して、得川家の末裔が現存していないこと
をいいことに系図を半ば強引に新田家に繋げたそうであります。
当初は得川家康という名前にしようと思ったそうですが、
得よりも徳の方が縁起がよろしかろうということで、徳川家康という名前に
変更いたし、これにより朝廷より晴れて改姓の勅許を得て
同時に従五位下・三河守に叙任されたそうであります。


今回、訪れました、日光東照宮。
最初は鎌倉時代に、源頼朝公が日光山造営したのが始まりと言われております。
その後、鎌倉幕府の歴代の名士の方々が厚く崇拝し、関東の宗教的権威としての
位置付けをされてきた場所とされていたそうであります。
そのことを目にした家康公は、自分が死んだら、ここに墓を作れと命じたそうです。

しかし、それを家康公に進言したのはフィクサー天海僧正だったそうであります。
次のパートでは、驚きの天海僧正の家康公埋葬プロジェクトをご紹介したいと思います。

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