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初めての日光 パート4

天海僧正は、実は亡くなったはずの明智光秀氏だったという説を知ったときは正直、
驚きました。
状況証拠が多いのが理由の一つだそうですが、
秀吉公と戦った山崎の合戦で敗れた明智光秀公は
京都の小栗栖というところで、地元の農民の手で殺された
との史実がありますが、あれは実は影武者だったとの説が・・・。
秀吉公のもとに届けられた明智光秀公の首はすでに顔の皮が
何者かの手で剥がされて腐乱が激しくて、誰だか分らなかったとの話しが残っていたそうな・・。
一番、えって思われた証拠として、初めてお会いしたのにありえない話の
駿府で一介の坊様と将軍様がお互いに手を取り合ったという家康公と天海僧正。
その後の関ヶ原の戦いでは家康公は天海僧正を軍師にまで抜擢するほどの
異常な寵愛ぶり。方や息子と妻を殺す命令を受けたり、方や相当ないじめにあったりと
お互いに主君織田信長公に相当な敵意があった者同士ということで・・。
信長公最期の本能寺の変は、実は家康公が黒幕だったとかないとかという話まで・・。
またこれまた
江戸城内で初めて会った天海僧正に3代将軍家光公の養母
春日局さんが「お久しぶりです」と語ったことが・史実にも残っているとかで・・・。
春日局さんは明智光秀公の筆頭家老であった斎藤利三氏の娘・・。
春日局が家光公の養母になれたのも天海僧正の推挙があったからだとか・・。
天海僧正はこれは事実だそうですが、108歳まで生きられたとか・・・・。
医学が発達していないあの時代に泉重千代さん真っ青の
嘘みたいな長寿、思わずすげえ・・・
事実はさていかに・・・というところですが・・・。
本当のところは誰にも分かりません。

左甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くあるそうです。
しかし、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、
出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった
工匠たちの代名詞としても使われたようであります。

徳川三代に仕えた天海僧正。フィクサーとも呼ばれた彼は、家康公の遺言に従い
納骨時に納めた久能山東照宮の宝塔の中の遺骨を、不死の山とも呼ばれた富士山と線で結び、
その先にある日光に東照宮を建てて、そこに遺骨を納める宝塔を作り、一周忌に再び、日光東照宮
に納骨したとされております。
久能山のある西の方向は西方浄土、死者の向う場所を指すと言われ、
東の方向は神の誕生を指す場所と言われ、東照宮大権現として、日光で永久に生きる
神として祀られるようになったとされております。

日光と江戸を結ぶ線は北に6度傾いているそうであります。
これは江戸から宇宙の中心である北極星を眺めた方向と一緒
なんだそうであります。
密教系の宗派である天台宗の僧であった天海僧正は、
北極星に向かう北辰の道を神仏だけが通れる道だと考えて、
ここを神となった家康の魂が通る道と定めたそうであります。

風水学、陰陽学の考えを駆使した天海僧正。
もともと風水的には地勢の良くなかった江戸の都市を平安京を凌駕するほどの
風水都市に仕立て上げたと言われております。
江戸城の鬼門に当たる上野には、東叡山寛永寺が置かれ、
反対の裏鬼門には目黒不動が配されたそうです。
平安京の鬼門を守護するのは比叡山と言われ。
同じように江戸城の鬼門を封じるのは、東にある比叡山で
東叡山寛永寺を仕立てたそうであります。

有名な三猿の一般的な意味が、
子供のころは悪い事を見たり・言ったり・聞いたりしないで、
素直なままに育ちなさい。というものだそうですが、
本当の意味は、自分に都合の悪いもの(自分の心をまどわすもの)や、他人の欠点は、
 見ない、聞かない、言わない、に越したことはない!という意味だと知ったときは
なんだかなあと正直思いました。


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