FC2ブログ
ご機嫌いかがですか?
いま、そのときに思っていること、感じたことを、述べたらなと思う次第であります。

プロフィール

こみけん

Author:こみけん
FC2ブログへようこそ!



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



最近の記事



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



れきしシリーズ 4

そして最後は玉の井

現在の東武伊勢崎線東向島駅は、昭和の終わり、1987年までは玉の井駅という名前の駅
でございました。駅の1階にあります東武博物館が昭和62年の12月に出来た時に、同時に
駅名も玉の井から東向島への改称がされました。、東武博物館を建てるにあたり、赤線という
呼び名の売春街で古くは有名な玉の井という地名のイメージを払拭するために、地元住民の
猛烈なる大反対を押し切って、東武鉄道会社側の功利的な判断といいましょうか、そんなこと
言ったら怒られちゃうか(苦笑)ある意味無味乾燥な東向島という名前を採用したわけであります。
そういう経緯もありまして現在でも駅名表や駅入口の看板には「旧玉ノ井」と記されております。
駅名が変わって20年以上経ちますが、僕なんか今でも身内の中では駅のこと、玉の井って言っ
てしまいますし、たまに店の前で通りすがりの人に、東向島駅はどこですか?と聞かれますと
一瞬、東向島?、え、どこだっけ?と思うときが時たまあります。ほんとかよ?本当なんです
(笑)。ま、小さい時分から馴れ親しんだ名前というのは、中々簡単には抜け切れません。
さて、玉の井。赤線地帯と呼ばれていた時代は、僕も生まれておりません。
歴史を見てみますと、大正12年に起きました1923年9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)
、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード
7.9の関東大震災で吉原遊郭が壊滅、業者はすぐさま玉ノ井と亀戸で商売を再開したそうであります
。玉ノ井は大正7年ころにぽつぽつと始まった無認可の私娼街だったそうであります。それから
大正13年6月で玉ノ井260軒(亀戸268軒)の売春宿があり、昭和20年3月の東京大空襲
で壊滅する際には玉ノ井は487軒、1200人という国内最大規模の私娼街になっていたそうで、
まあ、すごい風俗街だったようですね。僕も覗いて見たかったなあ、っておいおい!すなわち政府
非公認の売春街で、浅草からの急な避難で、駅東側の農地に無秩序に建てられたために、ごみごみ
として迷路(ラビラント)のような路地の入り組んだ街を出現させたわけであります。
玉の井の銘酒屋さん(説明はあえてしません)は、間口の狭い木造2階の長屋建で、それぞれの店
には女性を1~2人程度置いていた。1階には狭い通りに面して小窓が作られ、ここから店の女が顔
を覗かせて客の男を呼んだ。女性が接客する部屋は2階にある。耕地整理のできていない水田を
埋め立てて作った土地のため、あぜ道の名残の細い路地が何本も、密集した銘酒屋街の中を縦横に
入り組んで通っていた。また、その地質のせいで、雨が降ると相当ぬかるんだそうであります。
路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っており
、この街を荷風さんはラビラント(迷宮)と呼んだみたいですね。

この土地の遊興費は、荷風さんによれば平均的な店で1時間3円、「一寸の間」(ちょんの間)で
1円から2円程度とのことである。また、銘酒屋は外からみるとあまりきれいではないが、中へ入ると
「案外清潔だった」ということだそうです。本当行きたかったなあ、おいおいまだゆうのかい!
(断腸亭日乗より 昭和11年5月16日)。

第二次世界大戦中は、軍需工場の工員や兵隊たちで賑わったが、1945年(昭和20年)3月10日の
東京大空襲で街のほとんどが焼失したそうであります。

終戦後の玉の井は焼け残った地域に移り(元の位置とはやや異なる)、営業が続けられたそうであります。
一部の店は1キロほど離れた場所に作られた「鳩の街」(向島花柳界近所)などに移転しました。銘酒屋街
は警察の指導により、「カフェー」風の店に改めさせられ、いわゆる警察の地図で赤く囲まれて記されて
赤線地帯という名前となりました。

小説家の吉行淳之介さんも、戦後の玉の井も、鳩の街など他の赤線地帯とは違った独特の風情があり、その記憶は滝田ゆうさんの作品につながると書いている(滝田ゆう「寺島町奇譚」解説)。

売春防止法施行後は、この地区に娼家はなくなり、ほとんどは商店や住宅が建ち並び、一部に町工場のある東京の普通の下町となった。多少、飲み屋やバーがある程度で、吉原のように歓楽街にはなりませんでした。

現在でも、戦災で焼け残った地区(現在の墨田三丁目付近)に昔の面影のあるカフェー風の建物、銘酒屋風や色タイルを貼った建物等が残っていますが、それらも改修や老朽化による建て替えにより少なくなってきている。ただ、密集した街の中を入り組んで通る細い街路だけは、ほぼ昔のまま残っていますね。

 
そして玉の井の売春街は昭和33年「売春防止法」によって消滅します。見たかったなあ、くどいよ!以上です。←クリック




この記事に対するコメント


この記事に対するコメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック

トラックバックURL
http://maguro39.blog123.fc2.com/tb.php/313-7fd5c358
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)